『思い出のあの日に戻りたい』
『あの時、あの瞬間の二人になりたい』
『今こそ本当の旅を味わってみませんか?』
『あの時あなたが見た光景を伝えませんか?』
『もう一度代えがたい時を体験しましょう』
様々なメディア媒体から毎日流されるそんな言葉にあいつが反応した時からずっと思っていた。
気持ちまで伝わってしまえばいいのに。









タイムマシーン









高校二年の夏休みという楽しさの代表のような長期休暇明けの実力診断テストがやっと今さっき終わりをつげた。
それまでの死に物狂いのテスト勉強の追い込みから開放されたナルトは、そのすがすがしい気分のまま立ち上がり大きく伸びをした。
「やった、ってばよ〜〜〜」
ぐぐっと伸ばされた腕と連動した夏の制服である白いシャツとアンダーにしているTシャツの両方が上がり、無駄のない柔らかそうな白い肌が見え隠れする。
隣の席にまだ座っているサスケの高さからそれはしっかりと。
空調の完璧に効いた室内では暑いも寒いもないのでつい多少肌蹴てもナルトは全く頓着しなかった。
回答画面が消えたモニターから、出題された問題を自分の端末に転送し終えたサスケがそんな無防備な姿につい僅かに眉を顰めるも、平素の仏頂面が幸いして――あるいは災いといえるかもしれないが――全く気付かれない。
「気をつけろよ、ウスラトンカチ」
「何が?」
気持ちよさそうに伸びを続けていたナルトに降ってきた主語の抜けたサスケの台詞は理解不能で、ただ慣れたくはないが慣れてしまった変な呼び方に良くは言われてないとむぅっと口を尖らせて聞き返した。
「テメーの場合はまだ終わったと言えねぇだろ。赤点取って追試の可能性が大だ」
「うっ!」
サスケの胸の内でだけ意味を摩り替えられて言われた気をつける点にナルトは盛大に顔を顰める。
進級に関わる中間や期末テストと違うただの実力診断テストなの筈なのだが、担当教科の教師によっては追試を設けていた。
例えばナルトが苦手とする数学担当のみたらしアンコのように。追試に受からなければ中間まで毎日地獄と言われる『特別補習アーンド予習・アンコ先生の教室』が放課後に待っている。
モニターの回答画面は消えてしまったが、その半分も埋まっていなかった事実は消えない。
「うっせーってば。セッカク人がいい気分でいんのに水さすな!」
サスケの指摘が非常に腹立たしくはあるが正しいと嫌と言うほど分かるけれど何もこの一瞬の開放感を味わっている今に言わなくてもいいだろうとサスケを睨む。
何の効果がなくとも。
「早めに追試の準備をした方がいいお前の為に言ってやってんだよ」
予想通りちっとも悪いと思う様子もなく腹立たしく返してきた。
「よけーなお世話だってばよ」
ぷいっと顔を背けるナルトにサスケは一瞬言葉を失う。
小学生のような仕草に呆れるよりも可愛いとどきりとするようになってもう何年になるのか。
ナルトと初めて出逢ったのは中学の入学式で今日は高校二年の2学期最後の期末テスト最終日。
4年半以上のその時間とそんな風に思うようになった時間はあまり差が無い。
あの事があった時にはもうこの気持ちを自覚していたのだから4年は確実だ。
短くも長くも無い時間で得られたこのポジションを失いたくないので決して告げられはしないが。
「ま、精々頑張れよドベ」
言えるのは馴れたこんな憎まれ口だけ。
「ドベ言うな!てかもうテスト終わっただろーが!」
すぐさま返ってきたナルトの言葉は約束を交わしたかのようにいつも同じで。
それが嬉しく、サスケはまた言ってしまうのだ。
言えない言葉の代わりに。



「サスケがあんなん言うから赤点取ったんだーっ!」
休み時間に入った教室に泣き声を孕ませた声が響いた。
人を指差しちゃいけません、と父から幼い頃受けた教えをものの見事に破って、見るからに白く柔らかそうな指を隣の席で座っているサスケに向けてナルトは叫んだ。
立ち上がって涙目になりながら抗議するナルトの席の画面にはこの前行われた実力診断テストの追試を知らせるメールが開かれている。
ただ一つだけ受ける事となった追試だがその教科が大きな問題だった。
よりにもよってあの数学。
しかも今回の追試受験者はナルト一人という事らしく『予習&補習教室は特別サービスするわよー』とちっとも嬉しくない文面が付属されていた。
「人のせいにしてんじゃねぇよ」
あまり興味なく見ていた主要5教科の総合点と学年順位が映し出されていたページを消して、言いがかりといえるナルトの抗議をあさっりと受け流す。
「うっせー!ぜってーサスケのせいだ!」
「本当だろうが、その点じゃ」
「うるせーってーの」
力が幾分弱まった声で、それでも言い返しながらデスクに突っ伏したナルトに現状を正しく表した言葉が掛かる。
「うっわ、最悪じゃねーかよ。ナルト」
休み時間に入り教室からアンコが消えてすぐに悲鳴を上げたナルトの席にその理由を察しながらやってきたキバは、メールを覗き込んで同情に満ちた声で言った。
そしてナルトが涙ながらに何かを叫びたい気持ちはよく分かると心の中で頷く。
ギリギリ1点差で何とか追試を免れた、そして一年前その追試だけでなく『アンコ先生の教室』を受けた身としてはそれはもうしみじみと。
「キバ!てめっ、何で赤点じゃねーんだってばよ!?この裏ぎりもん!」
青い目が恨めしそうに幼馴染であるキバを見上げ、糾弾すると、ついさっきまでの同情満ちた眼差しはどこかへと飛んで面白がるものに変わる。
「誰が裏切りもんだ。オレのがアタマいいってだけだろーが」
頭を指差し、ニッと笑みを浮かべたキバの顔は完全に他人事と書いてあった。
「んじゃキバは何点だったんだってばよ」
「41だ」
「41!?ぷー!キバだってギリギリじゃん!だっせぇのー。オレと2点しか違わねぇし」
ぶーっと頬を膨らませ面白くないと顔に書いたナルトに答えたのは誰が教えるかと思っていたキバではなく。
「ゲッ、バラすなよシノ!」
隣の席でキバが安堵の息を吐いたのを聞いていたシノだった。
「言ってはいけなかったか?」
「当たりまえだろ!」
「何故だ?お前が確かに41点を取り、追試を免れたのは紛れもない事実。それだけだ」
「あーもういい」
丸いサングラスの奥は見えないが淡々と語るシノにキバはそれ以上男のプライドというものを主張する気が失せる。
ので、代わりに遠慮なく笑ってきたナルトへの譲れない主張をしておくことにした。
「うるせーぞ、ナルト。たった2点でもなぁ、これは偉大な2点なんだよ」
追試を受けなくていい。
胸を張ってそう言い切ったキバの言葉は、シノが言った通り紛れもない事実だ。
「たった2点なのに」
その小さな差が齎す大きな差がある厳しい現実にナルトはがっくりと肩を落とした。
「ま、頑張れよ。親切なオレの経験から言やー追試の方が難しいぜ、アンコ先生の問題は」
悄気るナルトにキバはもっと落ち込ませる経験談を披露する。
「………マジで?」
「マジで」
さぁっと軽く血の気が引いたナルトに去年を思い出したのか同じく顔色を悪くしたキバが頷いた。
「はっきり言っちまうと追試決定な時点であの補習と予習教室行きが決定みてーなもんなんだ」
「そんなん聞いてねーってば…」
何度目かのナルトの悲鳴をあげたナルトの様子に、キバはついこの同い年の幼馴染がまるで弟のような、守ってやりたいような気分になる。
「ともかく頑張れよ。運がよけりゃーヤマが当たるかも知れねぇしな」
「どんな問題でも全力を尽くせばいい」
ナルトより目線一つ高い二人は左右揃って下がったまま上がりそうにない肩に手を置いて励ます。
「キバ…シノ…!」
悔しさやらショックやらで一度はすっかり引いたナルトの涙が違う意味でまた顔を覗かせた。
どこかのおかっぱ頭の教師に対するゲジマユの先輩が見せるような類の涙だが、深く透明な青に強い保護欲を押され、キバは肩にあった手をそのまま上へとあげてふわふわの金糸が渦巻く旋毛に手をやろうとして、キバはぞくりと嫌な寒気に襲われる。
右側の後ろの首辺りがぴりぴりと痛く、その方向にあるのは、と考えて即座にキバは原因が分かった。
きっと切れ長の黒い目を使い、恐ろしい形相で睨んでいるのだろう。
ぴきりと途中で固まった手をぎこちなく降ろすと、キバはシノを振り返った。
「そ、そういや昨日シノにヒナタから渡してくれって頼まれてたのあったんだよな〜」
「そういう事はもっと早く言うべきだろう」
サスケの絶対零度の視線を直接浴びなかったからなのだろうか、それとも気にしないからなのだろうか、この局地的に非常に寒々しい空気の中シノは至っていつもと変わらぬ様子だ。
それを羨ましいと思うが今は真似する気にはなれず、キバは現状を打開する最も手っ取り早い解決法を選ぶ事にする。
「ワリィ。ともかく行こうぜ!じゃあな、ナルト」
ナルトの肩に置いてあった手をシノの腕を掴む事に変え、ナルトの挨拶も待たずに引っ張って教室を出ていく。
冷静すぎるきらいがあるシノはキバの突発的な行動にただ静かに引きずられながら疑問点を頭の中で並べた。
だが、預かっている荷物があるなら席に戻るだろうにそうはせず、言った事と不一致しているキバの行動にシノとは違いナルトは疑問を持たない。
ナルトが鈍いだけでなく、今はそれに気付けるような精神的余裕が無いから、という事もある。
それをとてもよく表すように重く圧し掛かる厳しい現状に押されてまた椅子へと身体を降ろしたナルトはデスクに突いた肘の間に顔を埋めた。
そして今唯一出来る事のように頭を抱えて唸る。
「あーもうサイアクだってば。2学期中ずーっと地獄教室……」
「受かればいいだけだろ」
この世の終わりのように言ったナルトにサスケが告げたそれは正論だ。
確かにその通りで、この上ない正論だった。
だがナルトが今この手で抱えているおつむは残念ながらその正論を現実に出来るかは怪しい、と自分でも思わずにいられないおつむなのだ。
それをサスケは知っているくせに。
「簡単に言うなっつーの!」
サスケが言うとおりに出来れば苦労はしないし、簡単にそれが出来るぐらいなら初めから赤点など取りはしない。
「うわぁ。しかも追試、土曜にある」
追試予定日を確認したナルトは今度こそ止めを食らったかのように完全に伏せってしまった。
「休みに来たくないってか?ガキかよ。つうかテメーのせいだろ」
「だって誰もいないガッコってなんか寂しーからヤなんだってば」
呆れて言ったサスケに返ってきた予想以上に覇気のない、うつ伏せたせいでくぐもったナルトの声に、それだけでサスケは変化の乏しい顔の下で落ち着かなくなる。
実際は教師であるアンコを始め全くの無人であるわけではないがわざわざ休日に学校に来る生徒などは殆ど居らず、下手をすれば生徒はナルト一人という可能性も無いわけでない。確かに人気は皆無に思えるほどだろう。
だがそれをサスケがどうにか出来るわけもなく。
「しょうがねぇだろ………代わりに見てやる。数学」
くしゃりと金色の旋毛を撫でると少し上を向いて見せた青い目が猫のように細まった。



しぃんと静寂の支配下である教室にはナルトの席のモニタの電源だけが点いている。
登録してある指で触れ、認証させると起動を始めた。
省エネと防音に気を使った機器は起動音一つたてず目で確認しなければ動いていることなど分からない。
この耳に痛いほどの静けさが嫌だ。
目を閉じればきっと感じる、自分一人だけがこの空間に残されて、自分がちゃんといるか分からなくなるような錯覚。
仕事で深夜まで帰らない父を一人家で待っていた子供の時のように。
家中の明かりを点けても、テレビをつけてもすぐに人のいない静けさが襲ってきて、一人である事を突きつけてくるようで嫌だった。
それから逃げるように眠って、夜中に目が覚めてもまだ一人だとはっきりと見せる皓々とした明かりの強さに泣いたことも。
父が忙しいのは仕方ないのにそれを嫌だと、寂しいと思う自分も。
「あーもう!さっさと終わらせてやる!」
沈み蓄積されていきそうな重い気分を散らせるように頭をぐしゃぐしゃに掻いた。
掻いて、荒い自分のものとは全然違う手つきを思い出し、ナルトは落ち着くような、逆にむずむずと居心地の悪いような気持ちになる。
寂しいから誰もいない学校に来たくないなんて今考えれば恥ずかしい事を言ったナルトの頭を慰めるように撫でた手。
髪を掻き分けて触ってくるサスケの指が、大きい手のひらが好きだ。
すごく優しくて気持ちいい。
目を閉じてその動きを意識でなぞると胸のあたりがじわりと温かくなってくるから。
思い出しつられるようにデスクに伏せて目を閉じた世界はどきどきと耳の側にあるような心音がナルトを包んで、ほんのりと赤くなった頬が熱を発してほこほこと温かい。
さわっと髪を掠める、長い指。
大きい手のひらが包むように頭を撫でて。
「寝てんじゃねぇよ、ウスラトンカチ」
思い出しているものにしてはやけにリアルな感触と、呆れたような、けれどどこか優しい感じがする低い声にナルトはぱちりと目をあける。
ばっと身を起こせばつい今さっき記憶の中でだけあった姿が現実に立っていた。
「サスケ?」
ぽかん、と口を開けた間抜けな顔晒してしまった事に気付かないままナルトは唐突に現れた男の名前を口にする。
だが呼ばれた方は疑問系であるのが気に食わないのか、形の良い眉が寄せられた。
「他の誰かに見えんのかよ」
「違うけど…なんでいんの?」
クラスメイトのシカマルほどでは無いが、面倒くさがりで多くの事に無関心なサスケがわざわざ休日の学校に来るなんて明日は雨が降ってくるかもしれない。
洗濯物干したいんだけどなぁ、なんてどこかズレた心配を頭の隅に過ぎらせながらナルトは至極当然の疑問を口にした。
「本、読みに来た」
「本?そんなん家からネット繋げばいーじゃん」
「普通のじゃなくて紙のヤツだ。貸し出し禁止の」
「あーそういえばウチの図書室ってば紙の本もあったんだっけ。でもわざわざ今日に来なくてもまた月曜でも良かったんじゃねーの?」
「……平日は人が多いから他の奴に読まれてたりするんだよ」
「ふぅん。そっかー。ま、何でもいいけどサスケも来てて良かったってばよ」
頬を人差し指で掻きながら照れた笑みを浮かべるナルトに、サスケの顔が僅かに赤くなる。
「それよりいいのかよ。追試の予習しなくて。あと20分しかねーぜ?」
「あ!そう!そうだってばよ!」
サスケが赤い顔を逸らす口実に見た時計に同じように視線を移したナルトは慌てて授業内容を書いたファイルや予測問題のファイルが入ってある端末を鞄から取り出す。
「ついでにさ、もっかい見てくんね?」
データを呼び起こし、並んだ数字やら記号に引きそうになったナルトは上目遣いにサスケに言ってみた。
追試決定からずっと教えてもらったし頑張ったという自信はあるけれど。
「どこからやるんだよ?」
軽い溜め息をつきながらもいつものように隣の席についたサスケにナルトは跳ねるような嬉しさとじんわりと胸に甘いのに痛いような気持ちが積もっていくのを感じる。
紙の本を読むためなんて嘘だ。
あれは前もって許可を取り、閲覧日を指定しなくては読むのも駄目だとサスケ自身がぼやいていた。
今日いきなり来て急に許可は取れないだろう。
前もって取っていたのであれば休日のこの日を閲覧日にしなくてもいいはずで。
だとすれば今ここにいる理由はひょっとナルトが言った子供みたいな我が儘を聞いたからなのだろうか。
ナルトが一人でいなくていいように。
(やっぱ、好きだってば…)
どきどきどきと穏やかに高鳴る胸が告げるこの気持ちはいつからなんて分からないけれどもうずっと密やかに抱き続けている。
絶対に言えないけれど。
この誰よりも近くにいて一番に信じている大事な『親友』を失いたくない。
もし言って気持ち悪い拒絶されてこの慣れた近さを失うのは、きっと我慢出来ないほどに辛いと思う。
一人ぼっちで静かな明かりの中で過ごした夜よりも。
だから、言わない。
「へへっ、サンキュ」
もう一度照れを含んだ笑みを浮かべ、目を眇めたナルトにサスケがどんな顔をしていたか見えなかった。



ぱら、とめくられる頁は意外と厚みがあり、脆くなくしっかりとしている。
サスケの手元には近代古典の授業でも紹介されていた作者の作品が広げられていた。
めくる度に古い紙の少し饐えたけれど何故か懐かしさを纏った匂いが鼻を掠め、本の持つ雰囲気を心地良く思う。
ずっと活字を追っていた首の疲れを感じ顔を上げれば目に付いた自分以外は誰もいない図書室の閑散とした空気に、こんな休日にわざわざ学校に来ている己の馬鹿さ加減と馬鹿になる理由を再認識する。
通信技術の発達、変動に伴い自宅勤務が日常となっても学校だけは情操教育と団体生活の経験の必要性が強く要望され『通う』という行為がなされていた。
以前はそれが酷く煩わしいと思っていたが今となっては非常に喜ぶべき事だと思ってしまっている。
この国の教育方針が違えばナルトとほぼ毎日会うなんて事が出来なかっただろうだから。
一番近いからという理由で中高一貫のこの学校を選んだ自分の選択とともに心底褒めたい。
同じ理由でこの学校に通っているナルトと信じた事も無かった神に感謝を捧げてやってもいい。
そんな以前の自分なら確実に嘲笑うような事を本気で思うようになった明確な理由など分からない。
だがただ気付けばナルトはサスケの心の殆ど、全部と言ってもいい大部分をその存在で満たしていた。
派手な色彩に目が惹かれ、うるさい奴だと煩わしさを感じ、気に掛かった。
怒ったり、悔しがったり、泣いたり、そして笑ったりする、あまりにも鮮やかな感情に、それが紡ぐ言葉に、ナルトという存在に当たり前のように惹かれていき、それには理由も時間もいらないと思える。
どうやったってこの感情だけは何に対しても希薄なサスケの心の中で消えようもなく強く存在を主張しつづけているのだから。
ほんの僅かでもナルトの事が頭をよぎればすぐにそれは膨らむ。
こうして活字が入り込む隙など無くなるほど。
ふいに紙を挟んでいた指に蘇ってきた癖があるのにさらさらと通りのいい髪と手のひらに収まってしまいそうな小さい頭の感触。
ああやって撫でられるようになるまでどれくらいかかっただろう。
初めは顔を合わせ、口を開けば下らない喧嘩ばかりしていた記憶しかない。
今では口喧嘩はもう二人の間では一種のコミュニケーションみたいなものになっているが。
でもいつの頃からかそれだけではなく、穏やかに触れるようにもなっていった。
それまでは行き過ぎた口喧嘩からしばしば発展していた取っ組み合いか、あの事でしかナルトに触れた事は無かったように思う。
とりとめなく連なる思考が呼び出してきた記憶にサスケは一人顔を赤くした。
中学最初の課外授業で近郊の国の推奨緑地場で林間合宿があった時。
川原の石に躓くと言うナルトらしい見事なドジをやらかしたナルトが前で向かいあっていたサスケの上に倒れこんできて。
咄嗟にナルトを庇おうと身体を持って行ったサスケにも原因はあったのだろう。
あ、と驚きに開けたナルトの口とサスケの口が重なってしまったのには。
がつんと歯があたった痛みと、後までずっと残った唇の柔らかさとぶつかった舌の感触。
それに嫌悪を抱くどころかあの時には既にその接触を喜ぶような感情をサスケは抱いていた。
即座に離れたナルトは気付いていないだろう、その時口元に持っていった手は拭うふりをしてただ当てていただけだったり、避けようと思えば避けれた事など。
我ながら情けないと言うか何と言うか。
けれど事故とはいえその感触を消してしまうようなことなどサスケには出来なく。
もしそんな事がナルトに知れてしまったら。
同じ男からそんな風に思われる気持ち悪いと、側に来るなと思うだろうか。
きっと思うだろう。
だから、知られるわけにはいかない。
どれほどナルト以外の他の誰にも決して抱かない苦しみさえ伴うこの感情が強くとも、飢える欲求が暴れようとも。
いかない、筈だ。
ピピッ、と時刻を知らせる電子音にサスケの思考と心臓が大きく揺さぶられる。
さして大きくないその音は無音に近い図書室では遮るものはなく、サスケの耳に酷く大きく鳴り、現実へと意識を引き戻した。
合わせていた時間はナルトの追試が終わる時刻。
流線型のスライド式の椅子から音も無く立ち上がるとサスケは閲覧終了の連絡をしに脚を動かした。



機嫌がいい。
それをそのまま表したような足取りだった。
「なんてーの?ヨユー?ヨユーってヤツ?」
にこにこと晴れやかな笑顔でサスケを振り返って言うナルトは追試合格の喜びをこれ以上ないほど噛み締めていた。
「どこが余裕だ。あれだけ教えてたった56点だなんてどーゆー頭してンだ?」
上機嫌のナルトの笑顔にサスケの気分も良くなるが、表情は相変わらず無愛想さが保たれたままだ。
「たったじゃねーってば!『も』!56点もあんの!」
「…まぁそういう事にしといてやるよ」
拳を握り力説するナルトにふ、と皮肉でない笑みがサスケの口に上り、ナルトはくすぐったいような嬉しさが込み上げる。
「あのさ、そのっ…ありがとな、サスケ」
勉強を見てくれたこと。
今日来てくれたこと。
待っていてくれて、こうして一人じゃなく二人で帰れること。
どれもはっきりと言うのは照れくさいけれど。
どれもこの胸にある気持ちで。
鼻の上を赤くして、つい先程とは違う小さなはにかんだ笑みを浮かべたナルトに眩暈にも似た感覚がサスケを襲う。
どくり、と今動き出したかのようにさえ思うほど心音が大きくなった。
(こいつが…好きだ)
鼓動が一つ鳴る度に、この気持ちは生まれ、蓄積されていく。
「サスケ?」
黙ったままのサスケにどうしたのかと、くるりと青い目を向けたナルトにサスケは渇いた喉から声を絞る。
「別に、大した事じゃねぇだろ」
どれほど胸の内に想いがあろうと、あるからこそ、裏腹な言葉しか言えない自分にサスケは情けなさと腹立たしさを感じるがどうしてもこの口は素直な文句など言わない。
「そんなコトねーって。すげー助かったし、嬉しかったってば」
ナルトと違って。
そうしてへへっとまた笑ったナルトに抑えようも無くサスケも笑みを浮かべた時だった。
「っえあ!」
意味の無い、間の抜けた声を上げながらナルトの身体がぐらりと大きく傾げ、見ていなかった前へと倒れて行く。
だが驚き、見開かれた青目が痛みに歪む事も、地面と必要以上仲良くなる事もなかった。
「このウスラドベ」
ナルトの耳のすぐ側から低い声と息がする。
「ドベ、言うな」
反射的に伸ばされたサスケの腕の中にしっかりと抱き込まれていた。
真っ先に悪態をつく声は安堵が色濃く満ちていて、それに返すナルトの声もつられ、大人しいものになる。
きっと間違いなく真っ赤になっていると自分でも分かるからナルトは顔を上げることも、慣れているはずの存在の慣れていないほどに近い体温と匂い、心臓の音に急激な混乱に落とされた頭では離れることも出来ない。
それはサスケの腕が解かれないからでもあるのだが、気付かず、自分とサスケの胸からどくどくと早鐘を打つ音だけを聞いていたナルトにさっきとは違う皮肉を存分に散りばめた声が届いた。
「いつまでたってもドベはドベだな」
「だからドベじゃねぇ!そりゃ今のは悪かったけど別にいつもやってるわけじゃねーし」
ばっとそれまでの気恥ずかしさなど一瞬で飛び散り、ナルトはむかちーん、と書かれた顔を上げた。
「いつもだろうが。躓いてこけるなんざ、中学の時から時から全く進歩してねぇ」
ナルトを待っている間思い出した光景ととても良く似ていたため、サスケは思わず出てしまった一言に、本当に余計な事ばかりなめらかにでる自分の口を恨みたくなる。
あの、熱を伴った記憶のことなど何も今言わなくてもいいのに、言う必要など全くないのに。
関係ないのだから。
「中学ンとき〜?なんだってばよ、それ」
案の定ナルトは意味が分からず、目を細め訝しげに聞いてきた。
「…………」
「ホントはなんもねぇんだろ?間違ってましたって素直に謝んなら許してやるってばよ、サスケちゃん?」
言うべきかどうか判断を付けかねていたサスケは、全く憶え無し、と言った風情で笑ってきたナルトに見た目よりもずっと低い沸点を披露する。
「謝るのはお前の方だろうが、ウスラトンカチ。そのトリ頭じゃ大した記憶力もねぇんだろうがオレは憶えてんだよ。中1の時の林間学校に行った時、川原で間抜けに躓いてこけて人にぶつかってきやがったのはどこの誰だ?」
嫌味をきっちりと織り交ぜたサスケの主張にナルトは、ほんの少し記憶を探り、すぐに見つける。
その主張に間違いのある事も。
その先に続いた出来事にナルトは微かに頬が上気し、赤くなってしまったのだが先に頭に血が昇っている今ならそれも不自然ではなく、サスケは元よりナルト自身も気付かない。
「林間…あっ、あれは躓いたんじゃなくてキバが押したからだろー!」
「本当にトリ頭だな。あの時はテメーが間抜けで石に躓いたんだろ」
「違うってば!」
「違わねぇ」
「ちゃんと思い出せっての!」
「そっくりそのまま返すぜ」
ばちり、と火花が至近距離で散るようだった。
青と黒の二対が互いに少しも引かず、逸らされる事がない。
あと数秒、睨み合っていたならば今度は間逆に顔を背け、暫く口を利かないといった、非常に経験回数の多い喧嘩のパターンをまた踏襲する所だったろう。
そうならなかったのは。
『思い出のあの日に戻りたい』
『あの時、あの瞬間の二人になりたい』
『今こそ本当の旅を味わってみませんか?』
『あの時あなたが見た光景を伝えませんか?』
『もう一度代えがたい時を体験しましょう』
突然の大音量で辺り一帯に聞かせた宣伝文句と、ナルト達のいる場所から数店舗先にあったリアルゲームショップの前――正確には空中――に浮かびあがった多角可視映像の青く強い明かりの所為だった。
『タイム・マシーンが時を動かします』
透明すぎる声はナルト周りの歩道を歩く人だけでなく、オートマタ運転でのんびりとよそ見をしながら車に乗っている人達の視線まで奪っていった。
もちろんナルトとサスケのものも。
「ああー!これってあの『タイムマシーン』じゃん!」
瞬時にすっかり意識がすっかり持っていかれたナルトが、興奮してサスケを振り返る。
好奇心と興味をこれ以上ないくらいに湛えて。
ナルトが言った通り今、各メディアが注目して連日煩い騒いでいるやつだろう。
『タイムマシーン』
SF小説に登場してからずっと人類が理論と現実の差を埋めて、造り出そうとしてきた夢と言われる機械の名を冠したそれは、別に本当に過去へと行けるという代物ではない。
搭乗者の身体は当然の如くこの現代に留まったままだ。
ならば何が過去に行くというのならば、敢えて言葉にして答えるならそれは意識だろう。
搭乗者の脳内で記憶されたものは思い出されないものが多くある。
一度は記憶した所で、不要、もしくは記憶の種類によりそれを引き出す信号を送る経路がすぐに分断されたりし、忘れてしまう。
それを思い出す場合はさらにその記憶を持つ個人の意思が介入し、時に脳内で無意識の改竄さえ行われる。
故に人の記憶や思い出と言ったものは非常に不安定に自己にとって美化されやすくもある。
詳しい原理はサスケとて知らないが、この機械は搭乗者の思い出したい部分の、初期に記録された、搭乗者の見たままの記憶をそのままデータとして取り出し、視覚映像、それも現実世界にいるのと変わらぬ映像の中に入り込めるのだ。
オンラインゲームで脳へと直接繋げ、ダイヴするのと似た感覚で、体験するのは己の過去。
そしてこれにはもう一つ変わった機能があった。
搭乗人数は最大で5人まで可能なのだが、同時に乗った人間同士ならば視点が交換出来るのだ。
つまり、過去で相手が何をどんな風に見ていたか、どんな行動がしたかを知る事が出来る。
しかもその時の脳の反応まで再現するので当時味わった感覚さえも分かるという。
ちょっとしたタイムスリップ気分を味わえるだけでなく変わった過去の楽しみ方が出来ると、つい先ごろ売り出されたこの『タイムマシーン』は高い話題を呼んでいた。
派手な映像広告が繰り返し展開されている下に男が出てきて、言った文句にその後の行動が決まったと言っていい。
「たった今から、本日先着30名様に限り『タイムマシーン』搭乗記念と致しまして無料体験していただきたいと思います!ご希望の方はこの奥で受けております予約をー!是非一度、過去を現在で体験なさって下さいー!!」
小型拡張マイクで周辺に行ったキャンペーン告知は当然二人にも十二分に聞こえ。
「ちょうどいいってば。アレで確かめよーぜ」
ニッと楽しげに唇の両端を上げたナルトがサスケに言ったのはすぐの事だった。
「はぁ?」
あれに乗りたいと言い出すのは予想の範囲だった。
むしろ絶対に言い出すに決まっている、と。
しょっちゅう流されていた映像と宣伝文句に「面白そーだってば!」とはしゃいでいたナルトを何度も目にしていたのだから当然だ。
だが何を確かめるんだ、と口にする寸前に気付く。
「おまっ、ひょっとしてさっきの…」
もう既に思い返して下らないと思えるつい先程までしていた口喧嘩。
それも過去が原因だ。
「そ!アレで見れば分かんだろ。オレがキバに押されたトコをきっちりと見やがれ!」
自信たっぷりに言い切ったナルトに、サスケは頭が痛くなりそうだった。
あの日の、あの事を反芻するにはサスケにとって多大な精神力を要する。
もちろんナルトとのキスが嫌だからというわけではない。
ただその後、どんな顔をしてナルトを見ればいいのか。
今日少し思い出しただけでさえこんなにも意識して、すんなりと口に出来なかったというのに。
「馬鹿か。例えそうだったとしてもあの時の俺がキバに押されるお前を見てなきゃそれが分かるわけねぇだろ」
乗るとしてもまったく別の時代にさせるため、ひいてはこのままこの話を有耶無耶に終わらせようと言った事が。
「うっ…あ!じゃあさ、じゃあさ!オレとサスケが入れ替わればいーんじゃん!そしたら押されたってぜってー分かるってば?」
一瞬は返答に詰まったナルトに芳しい結果を期待したが、すぐにそれは悪化されて覆された。
「視点の切り替えを、つまり俺があの時のお前がやった行動を体験するのか?」
「そ!それなら分かんだろ」
意外性に富みすぎた発想をするナルトがニシシッと自信たっぷりに笑う。
確かにその通りだ。
だが。
「嫌だ」
「何で!?」
すぐさま食ってかかってきたナルトに取り合えず、最もな理由を上げる。
恐らく、というか間違いなく短絡思考のナルトは気付いていない事だろう。
「何が悲しくて自分の顔に突進しなきゃなんねーんだよ。気持ち悪ィ」
あの時の視点を入れ替えるというなら、倒れた原因は分かるが、その後には自分の意識が自分顔に近づくという、ナルシスト以外には苦痛でしかない状況が待っている。
「げっ!」
サスケが言った意味を理解し、ナルトが舌をだして顔を顰めたのを見てサスケは密かにほっと息を吐いた。
「お前だって嫌だろ」
「それは…そうかもだけど。じゃあサスケが間違ってたって認めんだな?」
「何でそうなる!このウスラトンカチのウスラドベ!」
納得しかけていたナルトの最後の言葉につい、サスケの負けず嫌いの性格が首を擡げ、話の終わりが遠ざかる。
子供っぽいナルトの言い分をここでさらりと流せるくらいに冷めていられれば良かったのだろうが、ナルトの前ではそうはなれなず、すぐに同じようにムキになってしまう。
ナルトの方はもう、言うまでもない。
「あー!もう!オレはウスラトンカチでもドベでもねぇってーの!だってサスケが嫌だって言うんだからそうなるじゃん!」
「その理由はさっき言っただろうが!お前だって嫌だって言ったんだからお前が間違ってたって認めればいいだろ!」
「オレは間違ってねぇ!」
「オレだって間違ってねぇんだよ!」
再び至近距離で、実に下らない理由で睨み合った二人だが、先にしびれを切らしたのはナルトの方だった。
「〜〜〜〜〜だったらやっぱあれで確かめる!じ、自分とのちゅーぐらい目ぇつぶってればいーってばよ!それともサスケが間違ってるって認めるんならそれでもいーけど」
「それはテメーの方だろ。今のうちに大人しく認めろ」
じり、と合わさった目を剥がすためのように、見計らったような声が響き渡った。
「あと、残り10名様でーす!」
二人同時にくるっとゲームショップへと顔を向け、即座に走り出す。
脚の速さをここまで遺憾なく発揮したのは賭けが掛かった体育祭と、ナルトは遅刻の時以来というぐらいに、その俊足を活かした。
そうして。
一歩も引かない、否、引けない性格を後悔するのは、無事予約に間に合い、中高共通の生徒手帳に記録されてあるスケジュールデータを参照して予定日時も入力された後。
搭乗順番待ちをする段になってようやく落ち着きを取り戻しせてからだった。



馬鹿か、俺は。
予定時間までを近くのファーストフード店で過ごす為、注文したただ苦いだけのコーヒーを啜っては、眉間に一層深い皺を刻む。
サスケはずっとそれを繰り返していた。
向かい合ったナルトは小腹が空いたと言って注文したバーガーやホットドッグを黙々と食べている。
普段のナルトとの食事には不似合いな沈黙を流しながら、サスケは静かに後悔を続けていた。
『タイムマシーン』での視点交換。
そんなものやっていい筈がない。
あの日だけは絶対に。
例え普段でも、どれだけ自分の目がナルトを追っているか、どれだけナルトを注意して見ているか分かってしまうというのに、あの日の、あの時の行動が分かってしまったら。
一度も試した事がないので、あの機械がどれほどの明確さでサスケの情報をナルトに伝えるのかなんて知らない。
けれどずっとナルトを見ていた事、だからこそ避けれた衝突なのに避けなかった事、そしてその後口を拭いもしなかった事、それが全部分かってしまったらそれこそサスケの気持ちをそのまま言うようなものだ。
ナルトの隣という位置を無くさないよう必死に抑え、隠してきたものを。
知られてしまうのだろうか。
今とて、こんな馬鹿な言い争いをして、決して心地良い空気があるわけではないのに、目の前にいる相手がはりどうしようもなく好きだと想うこの気持ちを。
心臓が何かに掴まれたような衝撃と痛みを訴える。
サスケは暗い溜め息を吐くが、奇妙なのはそれに伴い、鉛でも呑み込んだかのような胸の一部は何故か軽くなっていることだ。
知られて困るはずだ。
ナルトが自分の側からいなくなる事など絶対に耐えられるはずがない。
だが。
いい加減に抑えるには苦しいこの感情が肥大しすぎているのも事実で。
その大きさに圧迫されていた部分が伝わる可能性に期待している。
伝わってしまえばいい、と。
いつの間にかいつもの癖でじっとナルトに固定されたサスケの視線に、普段なら気付かないナルトが珍しく気付き、顔を上げた。
「…人が食ってんの、見んなってば」
「別に見てねぇよ。この椅子に座ってりゃ嫌でもてめーのバカ面が正面になるだけだろ」
いくら事実でもサスケにそれを素直に認められるはずもなく、そしてまた繰り返してしまう憎まれ口とその応酬。
「ばっ、誰がだ、バカサスケ!」
「てめーがだろ、ドベ!」
「!…も、もうサスケとは口きかねー!」
思いっきり顔を背け、無理矢理に目を向けた窓の外を見るナルトは小さな、サスケにすら気付かれぬほどの溜め息を吐いた。
何であんなコト言っちまったんだ。
あそこまでムキになることなんて無かった。
けれどサスケ相手だと口喧嘩に発展するのは、下手をすれば呼吸と同じくらいか、それ以上に簡単で。
そうなればどうしても引けなくて。
でも何もこんな方法を取らなくても良かった、とナルトは滅多にしない後悔をしていた。
過去を体験中はその時味わった感覚も分かると謳われているけれどどれほどはっきりと分かってしまうのだろうか。
例えばキバに押されてバランスを崩したのは川から上がって髪が濡れていたサスケにうっかり見惚れてしまっていたからだとか、事故とはいえサスケとしてしまったキスが気持ち悪くなかったとか、そんな事もバレてしまうのだろうか。
もしそうだったらどうすればいいんだろう。
そんな風に想うナルトをサスケはどう思うだろう。
きっと「ウザイ」に決まっている。
そしていつもいつも側にいたサスケがいなくなってしまうのだろうか。
そんな事考えられない。想像が出来ない。
でもそうなるかもしれないのだ。
ナルトは静かに滅多に吐かない溜め息を零した。
俺ってば、馬鹿だ。



通された小さな室内ぐらいの広さのある、円形の機械内部には5つのリラクゼーションチェアのような席が円状に並べられていた。
その内の二つに座るよう係員に指示されたナルトとサスケは大人しく席に着く。
座ると同時に背の部分がゆっくりと倒され、まるでこれから眠るような体勢になった。
「それではお客様の右斜め上に掛けられております、ゴーグルをお手に取っていただけますでしょうか」
美人の部類に十分に分けられる係員のお姉さんに言われるまま、少し凹んだ収納スペースに入っていた黒のゴーグルを取る。
一見薄型の、なんの変哲もないただのネットにダイヴする時に使われる特殊ゴーグルにしか見えない。
「ではその青いコードシールを、耳の後ろ側の頭部に貼っていただけますようお願い致します」
二人が手にしたのを確認し、すかさず次の指示を出してくる彼女の手際はプロらしく無駄が無い。
これもネットに潜る時と変わらないと思いながら、ナルトは従った。
ポイントは耳の後ろの皮下脂肪の薄い所に貼ること、と注意して。
「では最後にゴーグルを普通のものと同じように、両耳にしっかりとお掛け下さい。暫くいたしますと『タイムマシーン』による時間旅行が始まります」
きっとにっこりと綺麗な営業の笑顔で言ったのだろうが、ナルト達には見えなかった。
掛けたゴーグルの半透明の暗さではなく、部屋全体に落とされた証明のせいで。
いつ始まるのだろうかと思うと同時にピ、と鳴った電子音とカチリ何かが合わさる音の後、視界は完全に暗転し、すぐにそれは明るい、眩しい日の光へと変わった。
目の前に広がるのはもう4年以上も前にみた深い森の緑と、川の高い透明度。
ふわっと最初に感じたのは草いきれ。
緑の濃厚な匂いだった。
目の前には自由遊泳時間を楽しんでいる生徒の姿と綺麗な、透明度の高い川がある。
だが、一向に動かない。
あれ、と思う。
確かナルトは真っ先にキバ達とともに飛び込んだはずなのだが。
それになにか違和感があるというか、視界が僅かながらに低い。
そこで漸くナルトは原因を思い出した。
今はサスケと入れ替わっていたのだ。
4年も前のサスケと。
(4年前で今のオレとあんま背が変わんねーってどういう事だってばよ…!)
つい視界の高さにむっとしそうになるが、次いで掛けられた声にそれは一気に霧散した。
「サスケ、入んねーの?」
ずっと視線の先にあった金色が近づいてきて、サスケに向かって言った。それは間違いなく4年前のナルト自身だ。
(お、オレってばこんな小っさかったっけ!?…てかなんか自分で自分を見るってヘンな感じがするってばよ)
「別にいい」
ナルトに答えた低いこの声は当然サスケのものだがまるで自分が喋っているように近い。
それが今は当たり前だとしてもナルトは驚いてしまう。
今頃、サスケも自分の声をこんな風に聞いているんだろうか。
そう思うとナルトは何だか気恥ずかしくて仕方がなくなる。
(やっぱ入れ替わるなんてしなきゃ良かったっ!)
ぎゅっと目を瞑ると、それまで見えていた視界が消える。
既に知ってはいたし、事前説明でも言われていた、本当に目を瞑れば視界が消えるというのを、試すつもりもなくナルトは体験した。
(あーこれなら自分とのちゅーも分からないからいいーかも)
ほっと息を吐くが、すぐに目を閉じていてもサスケの鼓動や、その他五感はきっちりと伝わってきて、大丈夫と言い切れるものではないと思い直す。
ふ、と手に触れた冷たさに何だろうと目を開けると、昔の自分がサスケの手を引っ張っていた。
「そんなん言うなって。行こうぜ、サスケ!冷たくて気持ちいーからさ!」
サスケを引っ張っている自分は酷く楽しそうだ。
そう、楽しかった。
珍しくサスケと嫌な喧嘩もしなかったし、協力して班の課題も終わらせれたし。
ふと、聞こえてきたどくどくと速くなっていく鼓動はサスケのものだ。
(サスケも、楽しいって思ってくれてたんかな)
そう思うと何だか酷く嬉しい。
そしてやっぱりはっきりとは分からないサスケの気持ちに少し気落ちする。
いつも面倒くさがりで無愛想で何でも興味無いという顔をしているけど、一緒に行動し、話すと以外とそうでは無いと分かった。
だからナルトがこうやってサスケと一緒にいるのを楽しいと思っているのかどうかはやっぱりサスケにしか分からない。
嫌ではないとは思うけれど。
この先に起こるあの事故で自分がどんな風に思ったかなんて、これならきっと知られないだろう。
それは良かったと思うのに、何だか少し残念だとも感じてしまう。
あまり聞く事のないサスケの気持ちを聞いてみたいと思ってしまったから。



暗くなった視界に明かりが戻った時には、4年も前の光景の中にサスケはいた。
「ひゃほーー!」
すぐ隣で騒がしい声を上げているのはキバだろう。
視界の左端に映った顔は見慣れたいたものよりもガキくさいが確かに見覚えのある顔だった。
「行くぜ、ナルト!」
「おう!行くってばよ!」
まるで己が返事をしたような近さで聞こえた声は、今でも男にしては高いと思っていたがそれよりももっと高く幼さを残したナルトのものだった。
(本当に入れ替わってるんだな…)
分かってはいた事だが、実際体験してみるとその感覚のリアルさに驚く。まさに入れ替わりだ。
改めて感心していたサスケの視界が一度上に上がり、すぐに急降下していった。
ふわ、と瞬間的な浮遊感の後、重力に従い落下する身体が感じる風とすぐにやってきた水面へぶつかる軽い痛みと衝撃。 どくどくと一気に加速していった心臓の音。
そして一瞬で全身を包む水の冷たさ。
大きくせり出していた岩場から飛び込んだのだ。
「〜〜〜っぷは!気持ちいー!」
水面から顔を出し、息を吐き出したナルトの声は心底気持ちよさそうだった。
同じように体感したサスケも、空気の温度と湿度を考えれば確かに一時ではあるがスリルと風が味わえるこれは悪くないものだと思う。
「サイコーだぜ!」
一緒に飛び込んでいたキバも水中から顔を出し、叫ぶように声をあげる。
「オレはもっかい飛び込むけど、お前も行くだろ?ナルト」
いい加減な泳ぎで水中に浮かびながらそう言ったキバにナルトは前を向いたまま振り返らずに答えた。
「ん〜とさ、行くけど…先行っててってば」
「はぁ?何でだよ?」
「サスケ呼んでくる」
「サスケェ?来んのかよ!?てか来ねぇーだろゼッタイ」
「そんな事ねーって。だってこっち見てるし、ひょっとしたらやりたいのかしんねーじゃん」
「ありえねぇ…!そんなんあるわけねーだろ!」
大仰に驚くキバの言い分が分からないわけではない。当時、というか今でもだがサスケがさっきのような遊びに誘われたいと思っていると考える人間など、この世にナルト一人ぐらいだろう。
「そんなん言ってみなきゃ分かんねーし。いいの!言うだけ言ってみんの」
ザバッと音を立てながら、岩場へとはほぼ逆方向へとなる岸側へと手足を動かしナルトはサスケの方へと近づいて行った。
水からあがり、数歩歩いた先には仏頂面をした4年前のサスケがいた。
何か不機嫌な事でもあったかのように眉間に皺が寄っている。
確かこの時は、そう。
ナルトの近くにずっといるキバ達に嫉妬していたのだったか。
4年経とうともあまり進歩がないと、サスケは少なからず己の情け無さを思わぬ形で味わう事となった。
「サスケ、入んねーの?」
耳に入った高い声に、こう言った時のナルトは自分とは対照的に心底楽しそうな顔をしていたとその時のナルトの幼い顔を思い出し、ほんの少し浮上する。
「別にいい」
「そんなん言うなって。行こうぜ、サスケ!冷たくて気持ちいーからさ!」
すっと伸ばし、握った手は水に浸かっていたせいか暖かく感じた。
普段はナルトの方がずっと体温が高いのに、とその冷たさに驚き、その手の柔らかさに狼狽えた。
その冷たい手を離したくなく、引っ張られるままに川へと入っていったのだ。
一向に楽しそうにしていない自分を引っ張っているナルトはどんな顔をしているのだろう。
あの時は後姿しか見えず、今でも何も分からない。
どれだけ中に入り、ナルトの心音や声を近くに入ろうともその思考が読める事はさっぱりとない。
視界とて、この低い位置から見えているのは間違いなくナルトが見ていたものなのだろう。
けれどどれを中心に見ていたかなんて分からないし、どこに意識を持っていっていたかなどさっぱりだ。
これならばサスケの思考がナルトに伝わる確率も低い。
それに気付き安心すると同時に、不自然に軽くなっていた感情の一部がまた重さを覚えた。
失うのを恐れて言えない言葉を伝えられたかもしれないと残念がる、矛盾したこの心が。



「な、キバが押しただろ?オレってば間違ってなかっただろ?」
店から出たナルトの開口一番に口を利かないと言っていたサスケに向かっていつもの調子で聞いてきた。
恐らくこうなるとは思っていたが、その通りに口を利いてくれて密かにサスケは胸を撫で下ろしながら同じように返す。
「確かにな。だがテメーがぼうっと突っ立ってたから押されて踏みとどまる事も出来ずに石に躓いたのも事実だろうが」
「それは、そーだけど」
「ならオレも間違ってはないな」
畳み掛けるように言ったサスケにナルトはうう、だのああ、だの暫く唸っていたが、頭を抱えだしてすぐにサスケを見上げてきた。
真剣に悩んでいる様子で。
「なぁ、この場合どっちが合ってて、どっちが間違ってるってコトになんの?」
「…どっちも合ってるし、どっちも間違ってねぇだろ」
「んじゃ引き分け?」
別に何か勝負でもしていたわけではないのだが、それを言うとまたややこしくなるのでサスケはそのまま頷く。
「まぁ、そうだな」
「そっか。ならもうこの話はナシな!んでもって…今日はごめん」
そもそも躓いて倒れかけたナルトを助けてくれたのが切欠だったのに、ありがとうも言っておらず、謝ろうとあの『タイムマシーン』を下りた時からナルトはずっと決めていたのだが、サスケは軽く眉をしかめる。
「別にお前が謝る必要はねぇだろ」
サスケからすれば初めにナルトを挑発したのは自分で、非はどちらかというとこちらにある。
いくら抱き締めたナルトの華奢な身体の細さや、体温の熱にしてしまった動揺を隠すためとはいえ。
「そんなコトねーって。それにオレが謝りたいの!」
胸を張ってそう言い切ったナルトはとても頑固で、その意志を変えるなど並大抵のことでは不可能だと知っている。
何を言っても譲らないだろうから、サスケは言うべきことだけを言うことにした。
「…俺も悪かった」
珍しいストレートな謝罪の言葉にナルトは軽く目を瞠る。
相も変わらず不機嫌そうにも見えるけれど、目元がほんの少し柔らかくなって、声が優しい。
こんな時、サスケという人間は分かりにくいけど、結構分かりやすい奴だと思う。
凄く不器用で優しい。
けれども言葉にこうして出されるのはとても少なくて。
やっぱりあの時サスケがどう思っていたのかはっきりと聞きたいとまた思っってしまった。
少しでもこうして自分といるのが楽しいと思ってくれているんだろうか。
ナルト自身が思っているように。
それは決して出来ないけれど。
自分の気持ちを同じで。
「んじゃ帰ろーぜ、サスケ」
あの川の時のように伸ばした手は、同じように握り返されて離れることはない。
「ああ」
握った手の柔らかさと高い体温、そこから微かに伝わる脈の振動。
それにサスケはほんの十数分前までもっと近くに感じていた声や鼓動を思い出す。
ナルトの様子から矢張り伝わらなかったと、落胆した気持ちも。
こんなんじゃ足りない。
どうせ解かるというのならもっとどうしようもないくらいになってしまえばいい。
この気持ちまで伝わってしまえばいいのに。
そう悲鳴を上げる心がいくらあろうとも、この手の温もりを失うわけにはいかないから。
言わない。
今はまだ。




















(終)


4444キリ番を踏んで下さったmahiru様に捧げたいと思います…!
素敵リクエスト『実は両思いだけどお互い片思いだと思っているサスケとナルト』です。
は、激しく任務失敗な感じが;すみません、腹切ってきます!!
それにしても高校生にもなっておてて繋いで帰るこいつらって…!ぎゃー!恥ずかしい!!
これが切欠でナルトさんはサスケは自分に対してどう想ってるのかとかが気になりだし、サスケはナルトが恋愛感情で好きだと想ってくれてはいないと頭から信じ込んでいるけどやっぱり好きだ!という気持ちが抑えられない、言って、自分の方になんとか向けさせたいと思うようになったというか。
あ、因みに脳云々の箇所はでたらめもいい所なんで本気になさらないで下さいね;さっくり流してやって下さい><
お目汚しを失礼しました;
そしてmahiru様、こんな駄文を捧げる非礼をお許し下さい。(土下座)



'05/10/2