「なぁ、先生。先生は友人帳の名前を全部返してしまえば居なくなるのか?」
ふ、と上げた顔はたったいまその疑問に気付いたと言わんばかりだった。
今まで全く思いついてもいなかった、気付いた自分の考えに驚いているというような顔にまねき猫そのものの半月の目が丸くなる。
「馬鹿げた事を聞くではないわ」
ふぅ、と呆れたように言った斑に夏目は数度ぱしぱしと瞼を瞬かせたのち、頷いた。
「そっか」
そうして、ゆうるりと微笑った。
「そうだよな」
それはとてもとても美しく。
それ以上の言葉を紡げなかった。









名を知れ









初秋の風が涼というよりは寒さと捉えられるようになった空を、三篠は駆けていた。
理由などは特になく、強いて言うなら散歩だろう。
棲家である沼がある森の木々の間に、人には強風としか思われぬ跡を残しながら身を進めていた三篠の目に白く大きな物体が目に入ったのは、この散歩を始めてから十分もしない内だった。
その姿と強大な妖気は見知ったものであり、少しばかり意外なものである。
「斑か? 珍しいな、こんな所で」
「三篠か」
意外さと同時に心当たる考えが浮かび、隣に降りて来た三篠にその目が向けられたのは一瞬で、すぐにそれまでのように目の前の何も無い空へと戻った。
何かを考えているようでその実からっぽのような眼をしている奴など知り合ってからこれまで見たことがなく、三篠はいよいよ思い当たった考えを確信に変える。
「どうした、鬱陶しい顔だな。泣いてでもおったのか」
別段、斑の目に涙などは見えぬが同じことと、したり顔で三篠は言ってやった。
「馬鹿が。どうして私が泣いたりなぞする」
だが斑は阿呆を言うなと鼻を鳴らして返す。
「どうして? あの人間が死んだからだろう。ここいらの妖でお前のあの人間への執着を知らぬ者などおらぬわ」
その様に三篠は、素直さを持ち合わせぬ昔馴染みを更に鼻で笑って返した。
「お前が執着していたあの、レイコの孫」
自ら用心棒の名乗りを上げて以来ずっと共に生きた人間に対する斑の執着は、傍から見ても分からぬほうが馬鹿、見ぬものすら伝え聞いた話で分かる。
用心棒を始めたばかりの頃ならいざしらず、後年になれば髪一筋でも不用意に傷を付けようものならその命が危ない。
過度に守られていた人間の青年が人でも妖でも傷つくのを是としなかった為その様な事はなかったが、もし青年が許せばなんの躊躇いもなくその強力な爪と牙で引き裂くだろう、などと噂好きの妖の間で囁かれていた。
「執着などしておらんわ」
なのに頑なに否定する斑に、珍妙なものを見るように三篠の目が細まる。
「ほう」
執着でなければ何なのだ、と問うてみようかと三篠が逡巡して出来た沈黙の間に、斑の低い声が落ちた。
「……タカシだ」
「なに?」
聞き逃したわけではないが、聞こえたものの意図が分からず三篠にとって音にしかならない。
反射的に聞き返した三篠をぎょろり、と眦に赤を刷いた薄緑と黄金の眼が睨んでくる。
「『夏目貴志』があいつの名前だ。『レイコの孫』ではない。知っておるだろう、耄碌したか」
大真面目かつ、不機嫌に言い放った相手に三篠の細められていた目はころりと目玉が落ちそうなほど開かれた。
「それを執着と言うのだ」
わざわざ名を正してきた斑に、くつくつと喉の奥から抑えようの無い笑いが込み上げてくる。
いくら多少関わっていたとはいえ、たかだか人間の名前一つ。
過去の奴であれば歯牙にも掛けぬ事だっただろうに、正しい名前を呼ばぬ、ただそれだけを許せない。
これが執着でなくてなんであろうか。
見所を述べてやろうかとも思ったが、だがしかし開いた大きな黒い口は話を元に戻した。
「ずっとレイコの、いや、夏目殿が病に伏した時から片時も離れなかったお前がこんな所に居るのは、死んだからなのだろう?」
死んだからだろう、と二度、言葉になった声はどこか薄ぼんやりだった輪郭を明確にさせ、止めのように斑の耳に響く。
ほんの僅かの後、音にすることなく斑は白く優美な毛で覆われた頭を縦に振った。
ゆるく動いた頭に、三篠の胸に言葉にし難い感情が去来する。
切ないような、空しいような、口惜しいような、それらは総じて悲しいと言ってよいのかもしれない。
「全く…人の命は儚くその身は弱いが、特にあの者は脆かったな。身の裡の心根とは間逆に」
出会った当初からあまり頑丈とは言い難い身体をしていたが、人並みにあった健康すら二十代半ばで持っていなかった。
だが逆に歳を重ねる毎に若い頃に時折見てとれた、心の隙は見当たらなく、強かな意志の片鱗はあの色素の薄い目に確りと湛えられ揺るがないものになっていた。
それはとても好ましくとても温かいもので、それなりの長さの間、三篠が己の名を預け続けた理由だ。
「本当に、人の命は短い」
ぽつり、ぽつりと零れた言葉に斑の返事は無く、ただじっと何もない空を見ている。
元より応えを求めて発した言葉でない三篠は斑の相槌など待たず、興味事を尋ねた。
「ところで、お前が約束していた友人帳は貰ったのか?」
多くの妖達の名前が書かれ束ねられた友人帳。
命そのものである名が書かれている妖は持ち主の命令を聞くしかなく、名を書かれた者を従わせる事が出来るが、夏目は祖母のレイコが奪った名をお人好しにも返して回っていた。
だが相手にするのは妖であるが故、危険な場合も多く、それ以外でも名を書かれた者を従える事の出来る友人帳を狙い奪いにくる輩、または夏目のように強力な妖力を持った人間を食ろうて力にしようと考える輩も少なくない。
そういった妖から護る代わりに、死後は友人帳を譲り受けるという約束を生前の夏目と斑が交わしていたのも、ここいらの妖の間ではまた有名な話だ。
約束通り受け取ったのかと問うた三篠を二たび睨むように眼を向けた斑は、だがすぐに顔を逸らす。
「まぁな」
「随分と薄くなってただろう」
あまり気の無い返事を気にする事なく重ねて問えば、その舌は滑らかに動いた。
「ああ、一匹だけしか残ってなかったわ。夏目の奴、言われるままにホイホイと名前を返すばかりか、自分から探して名前を返しに行きおってからに……」
ぶつぶつと文句の形で言葉を吐き出す割には、腹立たしさなど微塵も感じさせぬ斑と、聞いた夏目の行動に三篠の口からぷっ、と笑いが出てしまう。
「夏目殿らしいな」
実にあの人間らしい行動だ。
レイコの血縁者はどうやらあの夏目以外には居らず、己が死ねば名を返せる者が居なくなると考えての事だったのだろう。
書かれた名は紙きれ一枚だが破けば身が裂け、燃やせば灰になり、命じられれば如何に意にそぐわなくとも従わざるをえない。
まさに命そのものの名を奪われたままの不安さは言葉に出来るものではない。
最も、三篠自身はあの少年に預けている時、そのような不安を感じた事など無かったが。
己の身が弱っていながら、体力がごっそりと削られる名の返還をして回る、そういう人間だった夏目だからこそ、三篠は名を預けても良いと思ったのだ。
だからこそ小さな違和感を感じた。
「しかし少しばかり解せぬな。あの夏目殿ならば自分が生きているうちに全ての妖の名を返そうとしただろうに。見つからなかったのか?」
あの優しい人間ならばきっと最後まで、たった一人の妖だろうと諦めず名を返そうするだろうと思える。
だが斑はだんまりを決め込んだように何も言わぬ。
答えぬのなら違うということなのだろうが、益々それが解せない。
事実、夏目は周囲の制止を振り切って外に出て、時には遠出をしてまで残っていた妖の名をほぼ全て返していた。
残った一枚だけを除いて。
その最後の一枚を思っては、去年の夏が斑の脳裏に引きずり出される。
寝込む事が多くなり始めていたが、まだそれでも何日も寝たきりという事は一度も無かった頃。
暑い夏の頃だ。







ぺらぺらと捲られる友人帳は随分とその身を細らせている。
以前ならばあと何枚あるのか数えるのが少々億劫だったほどなのに、今ではすぐに数え終えられそうだ。下手をすれば両の手と足でたりるかもしれない。
「まったく、次から次と名前を返しおってからに」
まねき猫を生き物にした、その他に言い様があまりない猫姿の斑の口から文句が絶えることなく出続ける。
けれどその文句がいずれ譲り受ける時の中身の心配というのは建前、最近あまり調子の良くない身体への負担を心配してというのが本音だと知っている夏目はくすくすと笑って流すだけだ。
「悪いな、先生」
そして微笑みながらあやすように斑の頭を撫でる。
元より無骨さとは縁遠い指だったが、痩せて更に細く白くなった指はそれでも柔らかい。
とろりと蕩けてしまいそうなほど温かく幸せなものが斑の裡を満たし、珍妙な形の目が糸のように細まった。
真夏だというのに人肌の熱をもった手がひどく心地好く、ごろごろと本物の猫のように鳴ってしまう喉を誤魔化すため、咳払いを一つする。
「このままでは本当の本当に手に負えぬほどの大物がやってくる前に友人帳の名前が全部無くなってしまうわ」
名を返すと必ず出てくる台詞に、夏目もまた必ず同じ台詞で返す。
「俺は元よりそのつもりだ」
両の腕を組んで当然とばかりに言い、それに、と続けた。
「ニャンコ先生がついててくれるんだから、大丈夫に決まってるだろ?」
いつからか見せるようになった、その言葉を否定されるなどとは欠片ほども思っていない安心しきった顔に斑の身の裡の熱がじわりと上がる。
「当たり前だ。私を誰だと思っている」
これも、いつもだ。
また手元の友人帳を見つめる夏目にやれやれと首を振って嘆く。
「このままでは一枚残らず無くなる日も近いな」
嘆息する斑に、一拍置いて緩んでいた夏目の頬が急に硬くなった。
「なぁ、先生。先生は友人帳の名前を全部返してしまえば居なくなるのか?」
ふ、と上げた顔はたった今その疑問に気付いたと言わんばかりだ。
これまで全く思いつきもしなかった、気付いた自分の考えに驚いているというような顔にまねき猫そのものの半月の目が丸くなる。
「馬鹿げた事を聞くではないわ」
ふぅ、と呆れたように言った斑に夏目は数度ぱしぱしと瞼を瞬かせたのち、頷いた。
「そっか」
そうして、ゆうるりと微笑った。
「そうだよな」
それはとてもとても美しく。
見蕩れたのだ。
だからそれ以上の言葉を斑は紡げなかった。
紡ぐ必要もないと思っていた。
そんなものが無くなったからといってお前の側を離れるなど、どうして出来るのか。
出来るはずが無い。
これほど。
これほどに私は。
(だから馬鹿げた事をと言ったのに、何を勘違いしたのか)








「あの嘘つきめ」
追憶の先にいる相手へ放った詰りは小さく、ゆるやかにそよいだ風一つで掻き消される。
斑は別段それで構わない。
三篠に聞かせたわけでなく、聞かせたい相手にはここでどれほど大声を出そうとも届きはしない。
ここから届かなくなるまであっという間だった。
見送るなどとうの昔に慣れた事だというのに、それでも見送ったその時ばかりは嘘だと、信じられないと叫びたい気持ちになるほど、あっという間に夏目と共に在れる時間は過ぎ去ってしまった。
人の寿命など妖と比べくもなく短いというのに、夏目のそれは中でも特に少ない。
たった十数年。
傍らに居れたのはたったそれだけの時間。
けれども気の遠くなるほどに反芻した時間。
最後のその一瞬まで。
「何が「友人帳を譲るよ」だ……」
痛みや苦しみがあっただろうに、身から魂が離れる時は嘘のように穏やかだった夏目が末期に残した言葉を思い出す。

─────せんせ、い……友人、帳…を…ゆずる、よ。

呼吸をするのも難儀だったろうに、それでも無理をして伝えてきた。
最後まで笑って。

─────今まで、ごめんな。ありがとう。

赤い紋様が描かれた額に皺が寄った。
笑って逝った夏目に、少しばかり腹立たしいものがある。
「斑よ、誰の名前が書かれていたのだ?」
先よりは力が籠もった声が気になった三篠が問えば、記憶の中から戻った斑があっさりと教えた。
「私だ」
またちら、とだけ目を動かした斑の答えは三篠の考えていた範囲にはなく、正直驚いてしまう。
「お前、レイコに負けていたのか」
「誰がレイコ如きに負けるか。お前と一緒にするな」
レイコからの勝負をあしらって済ませていたとばかり思っていたが意外、と顔に浮かばせる間もなく即座に否定が飛んできた。
「なら、夏目殿にか?」
斑から名を奪い、友人帳に連ねられる者など、レイコを除いてはたった一人しかいない。
そのたった一人の名を上げればこれまた即座に否定が返される。
「違うわ。あやつは私の名を取らなかった」
鼻を鳴らし、言う様は酷く不服そうで、名を取られたかったと言っているようなものだ。
三篠にまた何ともいえぬ可笑しさが込み上げ、笑いそうになるが、喉を震わせるより前に、訊いていた答えを教えられる。
「最後の一枚には何も書いてなかった。そこに私の名を書いただけだ」
「おかしな事を」
先の笑いなど通り越し、呆れと不可解さが三篠の頭を埋めた。
レイコは勿論、唯一の血縁者であった夏目も死んでしまい、残った名を斑に返す者が現れる可能性などほぼ無い。
だからこそ夏目も死ぬ前に名を預かっていた全ての妖に返したのだろう。
なのに斑はわざわざ白紙に返される事のない名を自ら書いた。
いくら自分が譲り受けたとはいえ、もし他の誰かが手にしたならばその者に強制的に仕えなければならぬ危険がつき纏うというのに。
これをおかしな事と言わず、何を言うのか。
「五月蝿いわ」
けれど斑はただ一言、煩わしそうに呟いたきり、それ以上は語ろうとしなかった。
好奇心が擡げてはいるが、こうなった斑に訊いても無駄だと三篠も心得ている。
斑と三篠がだんまりを決め込んだのが合図だったのように、唐突に火の粉が斑の足元に生まれた。
「む」
小さな斑の呻きに三篠が気付き、生まれた火がちり、と鳴ったかと思った端からごう、と空気を震わせ、小さな火の粉はあっというまに斑の身を包む劫火に変わる。
「時間か」
全身を瞬き一つの間に火に包まれたというのに平然としている斑から身を離し、三篠は叫んだ。
「斑、一体何をやらかしたのだ!?」
斑はもう目の玉一つ動かさず、空ばかり見ながら何でもない事のように白状する。
「私の名を夏目の棺に入れた。それだけの事だ」
人間の弔い方は一つではないが多くの場合、そしてこの辺りでは火で葬る。
夏目の亡骸もそうで、彼の死を悼んだ者達が寄り集まり、式に則って火葬されるだろうと三篠にも分かっていた。
命そのものである名を、それを記した紙をその棺に入れればどうなるかも当然、分かる。
無論、斑もだ。
名を書いた紙を破けばその名を持つ者は裂け、燃やせば灰になる。
三篠は知らぬが夏目にそう言って教えたのは他の誰でもなく斑自身だ。
「もう死んでしまった人間に執着を持ってどうする!?」
自ら望んでした斑の行いに、三篠の眉根が寄る。
人の命が短い事など分かっていたはず、ましてやもう逝ってしまった者に執着を重ねる愚かさも、己と同じく何度も見送った事があるのだから知っていたはずだ。
「別に執着などしとらん」
だがまたしても斑は否定してきた。
とても愚かな言葉で。

「ただ、愛おしいのだ」

もうあの優しい声が呼ばぬならこの名など要らぬと思うほどに。
もうあの細く温かい指が触れぬならこの身など要らぬと思うほどに。
もうあの美しい人の子の目が見ぬのならこの命など要らぬと思うほどに。
これほどに心を波立たせる存在が。

「愛おしいのだ」

火が轟々と鳴っているにも関わらず、重ねた、初めて聞くほどに穏やかで落ち着いた低い声は不思議とよく通った。
白く優美であった獣のみを焦がす炎はそれもすぐに呑み込む。
一つの妖を空へと送る為に。








身という器があってこそ魂は現世に留まれる。
それは人も妖も変わらぬ。
白い粉のような物のそれに、もう斑という存在はない。
身から離れ現世に留まらなくなった斑の魂は今頃、先に昇ったであろう夏目貴志を追いかけているのか。
常に寄り添っていたあの頃のように。
「それを、執着というのだろうが」
瞬く間に灰に変わった身と三篠の呟きを一陣の風が飛ばした。




















(終)


初夏目駄文でいきなり死にネタて\(^o^)/
最初、話相手は垂申で考えてたのですが水底に沈んでる/(^o^)\ってなったので三篠か紅蜂か、と悩んで三篠になりました。
あれこれ詮索と推測が好きそうなので。
ぬおおおお偽者すぎてごめんなさい…!(土下座)



'08/10/1